さて、名古屋帯の発生とその普及について諸説を承知の上で、ここで一つの結論をくだしてみたいと思う。現在の和装帯の主力商品は丸帯と昭和4年に西陣で織り始めた本袋帯であるが、大正初期に萌芽した名古屋帯も肩を並べている。丸帯・袋帯と名古屋帯の大きな相違は、名古屋帯は用尺が短く仕立て方が異なることにある。つまり経済的で合理的な利便性を備えている。
元伊勢丹呉服研究所長で、きもの評論家・安田丈一氏は「大正から昭和のはじめにかけての新しいものといえば、名古屋帯・アッパッパ(夏に婦人が着るだぶだぶの簡易服)・エプロン・割烹着がある。名古屋帯を東京で最初に締めたのは芸者衆で昭和3・4年頃だった。」『服装文化』165・昭和55年1月刊。
また、昭和5年9月15日発行の外定商店(大阪)発行『実業倶楽部』相場報告欄に「変織名古屋帯」が商品として取引されており、昭和初頭には各帯地産地で生産された名古屋帯が全国の呉服市場で流通していたことがうかがえる。
ここで名古屋帯発祥と発展の道のりをたぐってみたい。名古屋帯の原型考案者とほぼ特定できる越原春子氏は明治18年、岐阜県加茂郡越原村(現東白川村)の代々庄屋を務める越原家の一人娘として出生。15歳で小学校教員となり、同39年に中京裁縫学校の教員を経て、大正4年に夫と共に名古屋市東区葵町に本科・裁縫科・家政科を有する名古屋女学校(名古屋女子大学の前身)を創立した。夫越原和を校長に、春子は学監兼舎監となる。この開学と軌を一
にするかのようにやがて名古屋帯となる軽装帯の原型を彼女は草案していた。長さ4メートル、幅34センチで表裏の両面を別布で仕立てた晝夜帯(ちゅうやおび)のくけ縫いの糸を切って表裏を二分、一本の晝夜帯から二本の帯に仕立て替える画期的な軽装帯を考えついた。リサイクル手法のこの帯に周囲の人々も注目して見たものの、あまりの新奇さに帯を実際に締めるにはいたらなかったそうである。