柳宗悦氏の提唱する民芸運動に共鳴、鳥取民芸館を設立する鳥取市の医師・吉田璋也氏が、兵庫県の丹波布への羡望から自ら創案者となり、創作民芸織物の制作に挑んだ。丹波布(旧称は佐治縞貫木綿)に習い、手紡綿糸を草木染・藍染によるモダンな縞・格子の手織木綿を織元・鳥取民芸協団で制作した。
伯州綿花を八頭郡袋河原村で手紡糸に、その綛糸は近郊の紺屋で染色、気高郡向国安村では整経と手織りする。両村(現・鳥取市)の地元婦人会の協力で仕事は進んだ。
昭和7年に自身が経営する日本で最初の民芸専門品販売店「たくみ」において、新作民芸織物「因州木綿」を発表した。更なる発展が期待された。だが、第二次世界大戦下の同18年に鳥取地震が発生、その夢は実らなかった。民芸店「たくみ」は、後に東京の銀座に進出、成果をあげた。