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鳥取県~因幡・伯耆国の巻

 因幡(いなば)・伯耆(ほうき)に連なる島根県・出雲地域で、江戸後期に萌芽した藍染木綿は、明治初期に隆盛となる。優美な四季風物を紺絣で表し、山陰の絵絣の名声を高めた。また、弓ヶ浜半島で栽培する伯州綿(俗称・浜綿)は、江戸初期の延宝頃(1676~)に始まり、国内有数の綿作産地への成長は明和・安永頃(1764~80)とされる。綿作による綿花供給が潤沢であることが、この地方の白木綿・絣木綿の生産発達を促した。
 
○伯刕(州)木綿~はくしゅうもめん
 江戸後期には農家の副業に綿花を綿打ち糸車で糸に紡ぎ、これを地機で厚手の白木綿に織り、上方の市場へ出荷販売、好評を博した。嘉永5年(1852)には地元木綿問屋は倉吉12、浜野目・佐田に各1、米子2、青谷2のほか計24軒が白木綿を主力に紺・浅黄・縞・絣木綿を各地から集荷して上方の大手扱い問屋に出荷していた。しかし、主品目の白刕白木綿は、明治中期に普及する綿紡績機械糸の薄地木綿に市場を奪われ衰退する。以後は藍染の絣木綿が主品目になる。


○青谷木綿~あおやもめん
 旧鳥取藩の御用紙を漉いた青谷村(現・鳥取市)は、今も楮・三椏・雁皮紙を流し漉きで伝承している。この地域で江戸後期の享和年(1801~04)に、花原勘左衛門なる者が綿織物を商品化した。京都・大阪へ出荷、文久年(1861~64)には、年産2万反余に達したが、明治初頭には5千反余に減少、やがて消滅する。青谷木綿も伯刕木綿の一種である。
 
 
○渡緞通~わたりだんつう
 商品としては生命の短い緞通だった。伯耆の渡村(現・境港市渡町)で明治の初めに、門脇彦五郎が大阪泉州の堺緞通産地で技法を修得した。その技法と使用綿糸に工夫を加え、明治13年に同村で開業、渡緞通の名称で大阪方面に販路を開拓、好評を博したという。
 同16年11月、大阪府主催の「関西聯合共進會」に出品、6等賞を受けた。同19年の生産高は六百余畳と順調な商内だったが、いつしか生産は止まり、絶えた。現在、国内産の伝統的緞通は堺・赤穂・鍋島の3銘柄のみになった。
 
 
○因州木綿~いんしゅうもめん
 柳宗悦氏の提唱する民芸運動に共鳴、鳥取民芸館を設立する鳥取市の医師・吉田璋也氏が、兵庫県の丹波布への羡望から自ら創案者となり、創作民芸織物の制作に挑んだ。丹波布(旧称は佐治縞貫木綿)に習い、手紡綿糸を草木染・藍染によるモダンな縞・格子の手織木綿を織元・鳥取民芸協団で制作した。
 伯州綿花を八頭郡袋河原村で手紡糸に、その綛糸は近郊の紺屋で染色、気高郡向国安村では整経と手織りする。両村(現・鳥取市)の地元婦人会の協力で仕事は進んだ。
 昭和7年に自身が経営する日本で最初の民芸専門品販売店「たくみ」において、新作民芸織物「因州木綿」を発表した。更なる発展が期待された。だが、第二次世界大戦下の同18年に鳥取地震が発生、その夢は実らなかった。民芸店「たくみ」は、後に東京の銀座に進出、成果をあげた。
 
 
○山陰の絵絣~さんいんのえがすり
 因幡・伯耆・出雲地方で織られる緯絣糸を巧みに使い絵模様を表現するものを指す。格子に鼓と鈴、熨斗蝶、縞に亀、石燈と鶴に小枝、松竹梅鶴亀吉祥文など自然の風物を具象的な絵絣で織り表している。緯絣糸を主役に、経絣糸を脇役に、山陰的のどかさを優美に絣織りで表現する。山陰地方で絵絣が開花するのは明治初期の頃である。
 
 
○倉吉絣~くらよしがすり
 倉吉市街の仲ノ町にある「倉吉ふるさと工芸館」には、昭和46年に発足した倉吉絣保存会の活動拠点がある。現会長は絣木綿研究の第一人者で県無形文化財絣技術保持者の福井貞子氏。戦後の倉吉絣は織元がなく、保存会の会員約70名が、各々に手織り絣を制作しており、年産百反余と見られる。
 工芸館では倉吉絣の展示即売・絣織り実習を見学できる。伝承者の養成は市立「伯耆しあわせの郷」で行うほか、同市内の鳥取短期大学絣美術館の絣研究室で社会人を対象に1年間の絣織カリキュラムを組み、講師・吉田公之介氏が指導に当たるので、遠方からの受講生が多い。また、同市福庭にある倉吉絣資料館の絣資料は見逃せない。
 倉吉絣の発祥は江戸後期に遡る。当時の倉吉町は一に稲扱千歯(いねこきせんば)、二に綿織物が特産だった。農家の米作の稲扱きには欠かせない千歯を製造販売する商人の商圏は広く、千歯商人は庶民の衣服・布団地に必要な藍染木綿・白木綿を千歯と一緒に行商していた。江戸後期の文政年(1818~30)に、倉吉の稲島大助が西伯耆の車尾村(現・米子市)の車尾絣(くずもかすり)の乱れ絣などの技法を手がかりに、倉吉絣の礎を築き絵絣を織り出すに至った。また、一説に同町の永井良平が嘉永6年(1853)に、車尾村から飛白織形(絵柄の種糸用の型紙)を入手、研鑽を重ね倉吉絣を誕んだとも言われる。
 いずれにせよ、倉吉の藍染絵絣木綿は明治期を迎えて隆盛、明治20年に倉吉纃(かすり)企業組合が、同30年には倉吉絣同業組合(織元32名)を結成する。
 この当時の絣生産は「1日平均百反」(昭和16年刊・倉吉町誌)で、丹念な地機の手織り絣だったが、他産地が利便な設備や紡績綿糸の導入などの事情が絡み合う大正期には、生産は減少、昭和前期に倉吉絣の専業織元は消えた。しかし、自家用の絣木綿は織り継がれ、戦後の昭和21年頃、紺屋が染める絣の綛糸は年間約3百反に及んだそうである。
 倉吉絣は絶えることなく地元で伝承され、いま再び脚光を浴びつつある。
 
くらよしかすり
くらよしかすり
○車尾絣(纃)~くずもかすり
 山陰地方で最も早く九州から絣技法が伝わったのは、西伯郡車尾村(現・米子市)との見方がある。掴染絣(つかみぞめがすり)とも称し、手紡綿糸の綛糸(かせいと)を手で掴んで藍甕に浸染して絣糸となし、この絣糸で織った稚拙な乱れ絣が、当初の車尾絣と想定される。これが改良され、因幡・伯耆・出雲の絣発祥に多大の影響を与えたと思われる。
 『鳥取県勧業沿革』明治33年・鳥取県内務部編に「本県纃ハ其最も高評デアルモノ一ヲ倉吉纃ト言イ、一ヲ浜ノ目纃トナス何レモ其初メハ車尾纃ヲ模倣シタルモノナリ」とある。
 車尾絣は寛政年(1789~1801)のはじめ頃に、それ以前の宝暦年(1751~63)には灘飛白(なだがすり、灘=現・米子市)が存在したとの説がある。
 綿絣の発祥起点を薩摩絣の元文5年(1740)とする通説からすると、綿絣の中心的存在の久留米絣の寛政11年(1799)の発祥より早く伝播したという、奇妙な問題が浮上する。掴染絣なる言葉から推察して、偶然発生説もあり得るという傍証に絞染の存在を挙げている研究者もいる。
 それはさておき、車尾と灘とはほぼ隣接していた村であるが、両村の絣木綿の衰退の経過がわからない。おそらく後年に隆盛となる弓浜絣の商品群に吸収されていったようである。
 
 
○弓浜絣~ゆみはまかすり
 弓ヶ浜半島の伯州綿栽培地を背景に、発展した絣木綿。浜絣・弓ヶ浜絣とも称している。米子から境港に至る幅2キロ・長さ20キロの半島を昔は浜の目と呼ばれ、江戸末期には各村々から浜の目絣と称する絣木綿を織り出していた。
 弓浜絣の前身は浜の目絣とみられている。明治期から弓浜絣は盛大となり、商都米子から全国各地に出荷された。『鳥取県綿業史素』伯耆文化研究会・昭和30年刊には「明治35年、弓浜絣は6万1千反」と生産量を示し、伯耆国の絣が健在だったことがうかがえる。江戸末から明治・大正・昭和へと衰微しながらも、伝統の弓浜の絵絣は継承されてきた。戦後は弓浜絣保存会(会長・角正)を結成、新たな振興を期すべく昭和48年11月に弓浜絣協同組合(理事長・嶋田太平、組合員10名)を発足させた。同50年には国の伝統的工芸品の指定を受ける。同58年には8,900反を生産しているが、平成21年現在の協同組合(理事長・村上勝芳)は組合員4名となった。平成17年には嶋田悦子氏が県無形文化財絣技術保持者の指定を受け、本藍染による手織り絵絣の伝承はしっかりと継がれている。
 
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