長門(ながと)と周防(すおう)の国からなる山口県は、本州の西端に位置している。その周囲三面に日本海・響灘・瀬戸内の海をめぐらし、東は石見・安芸の国に接している。
中世の守護大名・大内氏のもとでは対外貿易を行い、近世は徳川幕政下で毛利氏が領主だったが、幕末は王政復古に立ち上がった長州藩の、波乱の歴史を刻む。風雲急を告げる中で、一つのエピソードが残っている。慶応3年(1867)、朝廷から討幕の密勅が薩長両藩に下った。同時に錦の御旗制作の内命があった。長州藩では品川弥次郎らが、西陣の錦織の反物を京洛で買い求め、山口城下に持ち帰り、藩の所内を錦旗製作所として、京都から招いた岡吉春に旗の製作を命じた。
この御旗は鳥羽伏見の戦に官軍の陣頭に立てられた。その御旗製作所跡(山口市後河原)に現在は「錦の御旗」碑が建っている。
討幕の栄誉を担った長州藩は、明治政府樹立にも参画した。政治面は華々しく功績を上げたが、民政にかかわる暮らしを支えてきた伝統的な染織工芸は、明治期を迎えると衰退の一途をたどることになった。
別記「山口県の伝統工染織一覧」(2010年7月・富山弘基編)で示すように、手技を中心とするものでは柳井縞・玖珂縮が辛うじて伝承されるほかは、総ての伝統的染織品は消滅・衰退して、文献資料でその経緯を推察するほかに、かつての実態に迫る手だてがないようである。
江戸期には「防長五白」(ぼうちょうごはく)と称する特産物があった。米・塩・紙・蠟と白木綿である。織物の白木綿は各地の綿花を替綿(綿替)商から入手して綿を手紡糸に、織物にして、これを市場に出荷した。
県下での地図を俯瞰すると商品取引された織物(絣・縞・白・縮)生産地が周防の東部地方(周東3郡の玖珂・大島・熊毛)に集中していることが判る。これは瀬戸内の風土が綿栽培に適したこと、内海航路が上方や各地との商品運搬に便利だったことが挙げられる。
中世の守護大名・大内氏のもとでは対外貿易を行い、近世は徳川幕政下で毛利氏が領主だったが、幕末は王政復古に立ち上がった長州藩の、波乱の歴史を刻む。風雲急を告げる中で、一つのエピソードが残っている。慶応3年(1867)、朝廷から討幕の密勅が薩長両藩に下った。同時に錦の御旗制作の内命があった。長州藩では品川弥次郎らが、西陣の錦織の反物を京洛で買い求め、山口城下に持ち帰り、藩の所内を錦旗製作所として、京都から招いた岡吉春に旗の製作を命じた。
この御旗は鳥羽伏見の戦に官軍の陣頭に立てられた。その御旗製作所跡(山口市後河原)に現在は「錦の御旗」碑が建っている。
討幕の栄誉を担った長州藩は、明治政府樹立にも参画した。政治面は華々しく功績を上げたが、民政にかかわる暮らしを支えてきた伝統的な染織工芸は、明治期を迎えると衰退の一途をたどることになった。
別記「山口県の伝統工染織一覧」(2010年7月・富山弘基編)で示すように、手技を中心とするものでは柳井縞・玖珂縮が辛うじて伝承されるほかは、総ての伝統的染織品は消滅・衰退して、文献資料でその経緯を推察するほかに、かつての実態に迫る手だてがないようである。
江戸期には「防長五白」(ぼうちょうごはく)と称する特産物があった。米・塩・紙・蠟と白木綿である。織物の白木綿は各地の綿花を替綿(綿替)商から入手して綿を手紡糸に、織物にして、これを市場に出荷した。
県下での地図を俯瞰すると商品取引された織物(絣・縞・白・縮)生産地が周防の東部地方(周東3郡の玖珂・大島・熊毛)に集中していることが判る。これは瀬戸内の風土が綿栽培に適したこと、内海航路が上方や各地との商品運搬に便利だったことが挙げられる。
「山口県の伝統染織一覧」 2010年 富山弘基編
染織品名 | 産地名 | 現在の地名 | |
白飛白縮(白絣) | 玖珂郡岩国町 | 岩国市 | |
岩国縮 | 玖珂郡岩国町・多田村 | 岩国市 | |
周防小倉(綿服地) | 玖珂郡岩国町 | 岩国市 | |
蚊帳布 | 玖珂郡岩国関戸村 | 岩国市 | |
縮絣 | 玖珂郡藤河村 | 岩国市 | |
由宇縞 | 玖珂郡由宇村 | 岩国市 | |
★ | 玖珂縮(聞光寺縮) | 玖珂郡玖珂町 | 岩国市 |
紙布 | 玖珂郡山代深川村 | 岩国市 | |
★ | 柳井縞(柳井木綿) | 玖珂郡柳井津町 | 柳井市 |
柳井変り織 | 玖珂郡柳井町 | 柳井市 | |
周防絣 | 玖珂郡柳井町 | 柳井市 | |
周防縞 | 玖珂郡柳井町 | 柳井市 | |
浅黄絣 | 玖珂郡日積村 | 柳井市 | |
伊保庄絣 | 熊毛郡伊保庄村 | 柳井市 | |
阿月絣 | 熊毛郡阿月村 | 柳井市 | |
田布施木綿 | 栗毛郡田布施村 | 田布施町 | |
飛白木綿 | 熊毛郡平生村 | 平生町 | |
久賀縞 | 大島郡東久賀村 | 周防大島町 | |
小松木綿(小松絣) | 大島郡小松志佐村 | 周防大島町 | |
大島木綿 | 大島郡下の島々 | ||
白木綿 | 都濃郡徳山村 | 周南市 | |
白木綿 | 吉教郡秋穂村 | 山口市 | |
山口木綿 | 吉教郡山口町(で扱う物) | 山口市 | |
花色木綿 | 吉教郡山口町 | 山口市 | |
八広白木綿 | 吉教郡山口町 | 山口市 | |
雲斎木綿 | 吉教郡山口町 | 山口市 | |
網襦袢地木綿 | 吉教郡山口町 | 山口市 | |
段縞木綿 | 豊浦郡豊浦町 | 下関市 | |
絹帯地 | 豊浦郡豊浦町 | 下関市 | |
横野絣 | 豊浦郡安岡村横野 | 下関市 | |
紺飛白(絣木綿) | 阿武郡萩川島村 | 萩市 | |
赤川纃(絣木綿) | 阿武郡萩町大字江向 | 萩市 | |
結鹿子(絞) | 阿武郡萩町大字江向 | 萩市 |
(注)★印は現存しているもの/飛白(ひはく)及び纃(国字)は‘カスリ’と読む。
■周東地方■
★玖珂縮~くがちぢみ
○岩国縮~いわくにちぢみ
一世を風靡した岩国縮の源点とみられるのは、旧玖珂村産の玖珂縮。地元聞光寺(もんこうじ~現・正光寺)の僧・富山秀意(享保10年~天明8年/1725~1788)が畿内遊学のおり、丹後地方の丹後縮緬を見聞。これを手掛かりに帰郷した後の寛延2年(1749)、木綿の縮製法を考案したという。玖珂縮の誕生である。地元の人たちは寺名を冠して聞光寺縮とも呼んだそうである。
当初は白縮だったが、近くの商工の町岩国に玖珂縮が持ち込まれると、太物問屋・綿賛商がこの白縮を一気に名産商品へ格上げた。天保年間(1830~44)には太物問屋の塩屋喜三郎は白無地縮に加え縞縮の考案や手機の改良によって、岩国町近辺でも生産が広がると縮の名称を「岩国縮」に一本化して商いが展開した。
明治4~5年に「芽柳」と称する紺飛白縮(藍の紺絣)、や「岩国縮石摺りかすり」なる珍名の商品も現れた。同6年、旧士族の生計支援を兼ねて岩国町に設立の合資会社義済堂は岩国縮製造の本格的な機業場の第1号となった。
当初は白縮だったが、近くの商工の町岩国に玖珂縮が持ち込まれると、太物問屋・綿賛商がこの白縮を一気に名産商品へ格上げた。天保年間(1830~44)には太物問屋の塩屋喜三郎は白無地縮に加え縞縮の考案や手機の改良によって、岩国町近辺でも生産が広がると縮の名称を「岩国縮」に一本化して商いが展開した。
明治4~5年に「芽柳」と称する紺飛白縮(藍の紺絣)、や「岩国縮石摺りかすり」なる珍名の商品も現れた。同6年、旧士族の生計支援を兼ねて岩国町に設立の合資会社義済堂は岩国縮製造の本格的な機業場の第1号となった。
名産岩国縮は機業界の近代化を同14年に受け入れた。従来の手紡綿糸から紡績糸への切換えである。同36年には大阪で開催の「第5回内国勧業博覧会」では全国38道府県から出品の染織作品の中で綿縮は岩国縮・出雲縮・栃木産縮のみだったが、岩国縮は庶民の夏着らしい地風に魅力があった。しかし、今次大戦を境に縮の生産は廃れ、広幅洋反織物へと転換して行った。
縮織の再興に声を上げたのは、玖珂地区の人々。平成8年に村おこし事業の一環として資料調査を開始、翌年に玖珂縮開発小委員会(内田陽久委員長ほか19名)が発足した。この頃には昔の製作技術を知る人はなく、古い縮織の技術分析を重ねた。また、アドバイザーに京都の手織研究指導家・吉田紘三氏を迎えると、再興は順調に進んだ。平成9年11月11日~16日まで、防府市にある毛利家邸で「復活第1回作品発表会」を開いた。それを契機に玖珂縮の会を結成。現在は豊川育子代表のもと、岩国市玖珂町で伝承活動が続いている。
縮織の再興に声を上げたのは、玖珂地区の人々。平成8年に村おこし事業の一環として資料調査を開始、翌年に玖珂縮開発小委員会(内田陽久委員長ほか19名)が発足した。この頃には昔の製作技術を知る人はなく、古い縮織の技術分析を重ねた。また、アドバイザーに京都の手織研究指導家・吉田紘三氏を迎えると、再興は順調に進んだ。平成9年11月11日~16日まで、防府市にある毛利家邸で「復活第1回作品発表会」を開いた。それを契機に玖珂縮の会を結成。現在は豊川育子代表のもと、岩国市玖珂町で伝承活動が続いている。
★柳井縞~やないじま
伝統の小幅木綿織物が次々と姿を消す明治後期から、輸出及び内需向けの力織物による広幅織物を生産する機業場が、柳井・岩国・由宇を中心に抬頭。戦前の昭和初期に、組合加入者は60機業を数えている。柳井近辺は県下一の機業地帯となった。織物組合結成の推移を見ると明治31年に大島・玖珂・熊毛三郡木綿織物同業組合、同31年周防織物同業組合、大正10年に岩国縮同業組合と合併して山口県織物同業組合、昭和8年に山口織物工業組合、戦後は山口県染織工業協同組合となり、機業の盛んな柳井に機業場が置かれていた。同35年度の組合員は周防地域の18社、いずれも広幅の綿・スフ・合繊物で、この頃「山口サージ」は名声を博すほど好評だった。また、流行した「ウール着尺」も織っていたが、伝統的な柳井縞に関心はなかった。
時を経て組合は解散、機業場は散失した。現在の山口県繊維加工協同組合(13社・山口市)はファッション縫製を主にした業種で構成、織布機業は見当たらない。織物界は寂寞の観を呈していた。
平成6年、「柳井縞の会」が発足した。江戸時代から明治時代にかけて柳井商人が全国に販路を広げていた柳井縞・柳井木綿を再興すべく、もと柳井縞の織元だった田坂秋良氏ら8名が発起人となり、同年2月20日、柳井文化福祉会館に85名が参集する中で正式に活動を開始した。田坂会長宅には二百余裂の標本縞帳が残っていた。手機はもと織物技術者の石田忠男氏が修復。翌平成7年5月には復活柳井縞作品展を開催した。藍染を主にした民芸風な味わいが特長。 柳井縞の会(現会長・石田忠男、平成22年度会員80名)は研修センターに手機8台を設置、棉の栽培から手紡糸、糸染まで行い、柳井の大切な特産品を守り育てつつある。
時を経て組合は解散、機業場は散失した。現在の山口県繊維加工協同組合(13社・山口市)はファッション縫製を主にした業種で構成、織布機業は見当たらない。織物界は寂寞の観を呈していた。
平成6年、「柳井縞の会」が発足した。江戸時代から明治時代にかけて柳井商人が全国に販路を広げていた柳井縞・柳井木綿を再興すべく、もと柳井縞の織元だった田坂秋良氏ら8名が発起人となり、同年2月20日、柳井文化福祉会館に85名が参集する中で正式に活動を開始した。田坂会長宅には二百余裂の標本縞帳が残っていた。手機はもと織物技術者の石田忠男氏が修復。翌平成7年5月には復活柳井縞作品展を開催した。藍染を主にした民芸風な味わいが特長。 柳井縞の会(現会長・石田忠男、平成22年度会員80名)は研修センターに手機8台を設置、棉の栽培から手紡糸、糸染まで行い、柳井の大切な特産品を守り育てつつある。
○周防絣~すおうかすり ○伊保庄絣~いほのしょうかすり
○阿月絣~あつきかすり ○白飛白縮~しろかすりちぢみ
○小松絣~こまつかすり ○飛白木綿~かすりもめん
○阿月絣~あつきかすり ○白飛白縮~しろかすりちぢみ
○小松絣~こまつかすり ○飛白木綿~かすりもめん
周東地域で、絣織物を織り始めるのは、明治初期。距離的にも近い愛媛県の伊予絣、広島県に備後絣の影響を受けたと推察される。
絣柄は小付の単純なもので、岩国縮では経絣。周防絣も単純な小絣で、経緯絣もあり、紺絣である。前記の内国勧業博覧会では、伊保庄村の新田粂次郎が受賞している。また阿月絣は阿月村の岩田家が文政~天保頃に岩国縮の通称“墨がすり”及び伊予絣を参考に絣織りを編み出した。絣柄は霰や井桁の着尺や縞に経絣の布団地などが古い資料からうかがえる。しかし、いずれの絣木綿も明治末にはをひそめたようである。
絣柄は小付の単純なもので、岩国縮では経絣。周防絣も単純な小絣で、経緯絣もあり、紺絣である。前記の内国勧業博覧会では、伊保庄村の新田粂次郎が受賞している。また阿月絣は阿月村の岩田家が文政~天保頃に岩国縮の通称“墨がすり”及び伊予絣を参考に絣織りを編み出した。絣柄は霰や井桁の着尺や縞に経絣の布団地などが古い資料からうかがえる。しかし、いずれの絣木綿も明治末にはをひそめたようである。
■長門地方■
県西部には毛利本家の城下町萩、藩政時代に関門海峡に面した赤間関(下関市)は西日本屈指の商港だったが、周防地方のような織物は育たなかった。
○赤川纃~あかがわかすり
江戸期の元治元年頃(1864)、城下町萩大字江向に住む赤川ミチなる女性が纃を織り始め、地元では赤川纃と呼んだと言われるほかは、その実態は判然としていない。
○横野絣~よこのかすり
豊浦郡の旧安岡村横野地区は、現在下関市に吸収されているが、この横野で絣織が始まった。久留米絣から技術を学んだ村崎サダ(明治元年~昭和5年、62才で逝去)さんは、独自の工夫を加え地機で織っていた。当時の村々の衣料は自給自足が多く、幾何文と絵絣文による絣織りに近郷近在に人々は目を見張った。商品として販売する目的のないこの絣は、村崎サダさんを頼って常に30名近い女性が弟子として指導を受けるほどになった。その一番弟子と言われる地元の原野セキさんは、明治40年、14才の時に37才のサダさんから習い始めている。セキさんは昭和19年頃まで、高機で絣を織っていたそうである。
サダさんの豊かな感性は見事な絣柄を生み出している。自家用のみに供される絣木綿では秀でている。40年余で横野絣は、その幕を閉じたが、絣の美には歴史の長短を忘れさせるものがある。その絣織物資料は下関市立長府博物館で収蔵している。
サダさんの豊かな感性は見事な絣柄を生み出している。自家用のみに供される絣木綿では秀でている。40年余で横野絣は、その幕を閉じたが、絣の美には歴史の長短を忘れさせるものがある。その絣織物資料は下関市立長府博物館で収蔵している。