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名古屋帯物語

一.名古屋帯の名称発祥の謎

  和装品のなかには理解しがたい名称の品々がある。和服のセンターポイントに当たる帯の品種もそうである。特に趣味的なおしゃれ着に適ったもとしてよく知られる「名古屋帯(なごやおび)」は、呉服専門家や着物愛好家から、この名称由来のあいまいさに疑問が投げかけられる。三大帯産地の西陣帯・博多帯・桐生帯は、その産地名を冠した帯だとすぐわかるが、名古屋市に帯地を織る山地が見当たらないのに、なぜ名古屋帯の名称で商品として扱われるのかと、誰しも思うことである。
 時には桃山時代から江戸時代初期に流行った名護屋帯(なごやおび)の系譜を継ぐものかと、混同したりする。こうした疑問を整理して、正してみようというのが本稿の目的である。

二.名護屋帯と名古屋帯の混同

 名護屋帯は大陸の工人が伝えた組紐技法の丸台を使い、太さ数センチを唐糸(からいと)(絹糸)で丸紐(まるひも)にした組帯(くみおび)(縄帯・腰紐)を指すが、当時の実物は残っていないという。「肥前名護屋城図屏風」や絵巻物などから長さ約1丈2尺(約4メートル20センチ)の丸紐の両端に房を付け、小袖の腰に五~六巻廻して締め結ぶ艶な彩りの組帯と想像されている。この名称の由来は豊臣秀吉が朝鮮半島への出兵基地として、日本海の玄界灘に面した入江の肥前国名護屋(佐賀県東松浦郡鎮西町名護屋)に築城、そこに参集する全国諸大名陣屋の布陣は壮観を呈した。文禄・慶長の役(1592~98)には併せて約29万人兵が出陣したという。名護屋は往き交う人々で殷賑を極め、戦いに敗退したが名護屋
帯たる装いの組紐はこの地から誕まれ、一世を風靡したとのことである。
 現在は肥前名護屋帯保存会(伊藤百合子会長)が、鎮西町において伝承活動を続けている。名護屋帯は組紐の技法で制作する帯地であった。

三.名古屋帯誕生の揺藍期

  名古屋帯の誕生は近代の大正初期のことである。名古屋帯の前身は軽装帯に分類されるものだった。名古屋帯が考案される予兆は明治期の文明開化の風潮の中で、女性の服装の改善が、改革識者によって同30年代から唱えられ、大正9年に「日本服装改善会」が発足している。帯類では腹合せ帯・五尺帯・七五帯・衛生帯など聞き馴れない帯が会員によって考案された。
 その改良活動は平成の今日も続いているが、名古屋女子大学『紀要』三五号家紋・自然編(平成元年3月刊)「帯に関する研究第二報‐大正・昭和における付け帯について」豊田幸子・志賀たか子共同執筆では、月刊婦人雑誌『主婦の友』創刊号の大正6年3月号~昭和62年5月号までの間に、“付け帯び”(軽装帯の一種)に関する記事一覧表を作製した掲載がある。
 付け帯はお太鼓部分と胴廻り部分を別々に仕立て、簡単に着装できるのが利点で、この種の帯を商品化して大成功させたのは、戦後の昭和28年に㈱新装大橋を京都に設立した大橋義一氏の「新装帯」である。
 しかし、ここに到るまでに前記の一覧表では大正期に平岡静子・中村絢子。昭和前期に清水輝逸・米川あさ子・米川とく子・半澤千枝子・村田よし子・岡登けい。昭和戦後期に大塚末子・樋口しげ子・織田稔子・水田屋・上田美枝・㈱新装大橋・市田㈱の名を挙げている。他にも多数の和服改革派が存在していたとみられるが、付け帯の研究家の移行を知る上で貴重な資料である。
 そして、この一覧表に登場していないが、付け帯及び後に名古屋帯と命名される軽装帯を大正4年に考案した越原春子(こしはらはるこ)氏を見逃すことはできない。

四.名古屋帯の特性

  名古屋帯の特徴は付け帯とは異なる特徴があった。元市田㈱取締役・青木治夫編『きもの物語』昭和58年・京都織物卸商業組合刊に「名古屋帯は胴の部分を半幅に仕立てて、垂れを広く(並幅)に仕立てる帯で外出用又は趣味的おしゃれ用等に使用する」と説明している・仕立て形式は(社)日本和裁士会編『和服裁縫ハンドブック』昭和57年刊から引用図解(参照)ででよくわかる。
 明治期以後の帯の種類・呼称は多様となり、日本風俗史研究の大家・江馬務氏が唱破したように「民衆の帯は官服の帯などとあまり関係がない」こと。それゆえに民の帯は時代の感覚を取り入れ、形を自由に変化させ、新しい風俗を誕みだしてきたという経緯がある。

五.名古屋帯の発祥とその道のり

  さて、名古屋帯の発生とその普及について諸説を承知の上で、ここで一つの結論をくだしてみたいと思う。現在の和装帯の主力商品は丸帯と昭和4年に西陣で織り始めた本袋帯であるが、大正初期に萌芽した名古屋帯も肩を並べている。丸帯・袋帯と名古屋帯の大きな相違は、名古屋帯は用尺が短く仕立て方が異なることにある。つまり経済的で合理的な利便性を備えている。
 元伊勢丹呉服研究所長で、きもの評論家・安田丈一氏は「大正から昭和のはじめにかけての新しいものといえば、名古屋帯・アッパッパ(夏に婦人が着るだぶだぶの簡易服)・エプロン・割烹着がある。名古屋帯を東京で最初に締めたのは芸者衆で昭和3・4年頃だった。」『服装文化』165・昭和55年1月刊。
 また、昭和5年9月15日発行の外定商店(大阪)発行『実業倶楽部』相場報告欄に「変織名古屋帯」が商品として取引されており、昭和初頭には各帯地産地で生産された名古屋帯が全国の呉服市場で流通していたことがうかがえる。
 ここで名古屋帯発祥と発展の道のりをたぐってみたい。名古屋帯の原型考案者とほぼ特定できる越原春子氏は明治18年、岐阜県加茂郡越原村(現東白川村)の代々庄屋を務める越原家の一人娘として出生。15歳で小学校教員となり、同39年に中京裁縫学校の教員を経て、大正4年に夫と共に名古屋市東区葵町に本科・裁縫科・家政科を有する名古屋女学校(名古屋女子大学の前身)を創立した。夫越原和を校長に、春子は学監兼舎監となる。この開学と軌を一
にするかのようにやがて名古屋帯となる軽装帯の原型を彼女は草案していた。長さ4メートル、幅34センチで表裏の両面を別布で仕立てた晝夜帯(ちゅうやおび)のくけ縫いの糸を切って表裏を二分、一本の晝夜帯から二本の帯に仕立て替える画期的な軽装帯を考えついた。リサイクル手法のこの帯に周囲の人々も注目して見たものの、あまりの新奇さに帯を実際に締めるにはいたらなかったそうである。

六.名古屋帯の原型創案者と名称命名者

  名古屋女学校が四年制の名古屋高等女学校に昇格する前年の大正9年、市内中区の中村呉服店(後のオリエンタル中村百貨店→現三越名古屋栄店)に入り、外商店員をしていた小沢義男(後に取締役)が、名古屋帯の名称は私が名付け親だと詳細を語る場面が『名古屋ケチケチ繁盛記』大野一英著・昭和52年講談社刊にある。その一部を引用すると「名古屋女学校の越原春子先生のところへもよく通ったものですが、春子先生がちょっと変わった帯を使っておられた。あの帯、ちょっと変わっているなあと思ったのが病みつきで、とうとう『名古屋帯』の名づけ親になったんです。…」
 春子氏の帯を借りて店に持ち帰り、新規商品にならないものかと店で相談、京都西陣の織屋に同じ尺用のものを織らせて店頭で売り始めたのは大正13年。越原春子氏の学校名と地名にちなんで小沢氏が「名古屋帯」と商品名をつけた。帯地の布の使い方が経済的だったので、「名古屋人のけち根性」と東京でけなされたりもしたが、瞬く間に全国の呉服店が扱う勢いとなった。名古屋人好みが成功した例の一つである。越原春子氏があたらしい帯仕立てを創案して広く世に知られるまで10年の歳月を要したが、小沢義男氏の商人の直感と商売に結びつける実践力が、和装界において名古屋帯を商品として不動のものにした。

七.名古屋帯に関連する諸説

 名古屋帯が量産される昭和初期には「ナゴヤ帯」「那古野帯(名古屋の旧称)」など珍名称が散見されたようだが、当時市内で屈指の呉服商だった松坂屋・十一屋(現丸栄)・滝定・丸文・めん儀・柏信・武田呉服店らもこぞって各帯地産地製の名古屋帯を販売するようになった。
 春子氏の名古屋帯は脚光を浴びたが、幾つかの異説も紹介しておこう。

 (一)大正の同時期に中区栄の松坂屋では考案部に勤務する後藤小七氏の考案帯を「文化帯」と名付けて販売したが、安っぽい印象で初めは売れなかった。関西地方で名古屋帯として売り出すと「全国津々浦々まで名古屋帯でなければならぬ時代になってきた」(昭和9年発行『松坂屋社内報』)。

 (二)高島屋の『百選会百回史』には「なごや帯は大正11年、羽衣帯(はごろもおび)の名で、手軽で経済的な新案帯として売り出されたとあります」『日本服飾小辞典』北村哲郎著・昭和63年源流社刊。しかし、この後、羽衣帯は昭和2年に名古屋帯と名称を変えている。名古屋帯の名称については呉服界共通の商品名となり、今日のように何でも商標登録で独占するほど、世知辛い時代ではなかったようである。


 (三)考案者として飯田桂子説がある。飯田女学院長の飯田桂子氏が、大正7年、当時中区大須にあった商工館で開催の中部5県下の工芸展覧会に、独自の帯を出品して入賞した。その頃は文化帯と呼ばれたが「後に名古屋帯として広く普及、経済的で合理的な帯と評判でした」と子息飯田重忠氏の話を『広報なごや』平成4年1月号に掲載がある。


 このほかに和裁師の名前も浮かんでくるが、客観的な事実の説明がつかないものもある。


 かねてから名古屋帯の名称由来を確かめたいと思っていたので、名古屋女子大学秘書室の日比野美和子氏、名古屋織物卸商業組合の益池育生氏から資料提供をもとに、私なりの結論をここにまとめることができたように思う。心からの謝意を両氏に表わしたい。

付記

 桃山期の文禄前後から江戸初期の寛永頃まで衣装帯で注目された名護屋帯を、古文献のなかには名古屋帯と記述している書物がある。
 古くは現在の名古屋の地名は那古野・那古屋・名護屋とも称していたが、この地に徳川家康が慶長15年(1610年)築城のおりに名古屋城と名付け公称となった。桃山期の名護屋帯は、現在の名古屋帯とは異質なもので何ら関係はないが、参考までに書名を挙げて混同の背景を紹介しておきたい。


(一)『世宝大成萬金産業袋(せほうたいせいばんきんすぎわいぶくろ』全六巻、三宅也來著(略歴不詳)享保17年(1732年)刊。巻之四「名古屋帯男女(なんにょ)の帯。いと眞田(さなだ)の事なり。女帯は総(ふさ)つき幅四寸くらい…」



(二)『骨董集(こっとうしゅう)』上中下巻、山東京伝著(江戸中期の戯作者)。文化10年(1813年)刊。上編中之巻「男女もと糸を糸川(糸へんに川:まるうち)にし、縄に似たる両はしに総をつけたるをいくへともなくまはし、帯にしたる体(てい)あまた見えたり…昔、肥前の名古屋にて唐糸(絹糸)をもて組たるゆえ、名古屋帯とも又組帯ともいひし…」
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