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「丹波布」を愛した民芸運動創始者・柳宗悦氏

 江戸時代の風趣を感じる「丹波布(たんばぬの)」は、民芸運動の創始者・柳宗悦(やなぎむねよし)氏が見出した縞木綿と言ってもよいだろう。
綿からの手紡糸を榛の木・刈安・樒・栗皮・楊梅・藍の植物染料で藍・緑・茶系の濃淡で縞・格子となし、ところどころに"つまみ糸"と称する絹の引き糸を緯に通しての粋さは、見事な手織り木綿である。これを京の町衆は重宝したものだった。
 柳氏は民芸理念を説いた著『工藝の道』(昭和3年刊)に「京都を訪れる度に、私の眼を異常に引いた一種の布があった。在住するに及んで益々明かに其美を見るを得、且つは其種類が極めて豊な事を知る事が出来た。私は能ふ限りそれ等のものを蒐集した。」と記している。宗教哲学の視点で工芸の美をとらえてきた柳氏は、東京に住いしながら京都へ度々足を運んでいた。東洋大学宗教学教授だった大正10年代のことかと思われる。東寺・北野天神・檀王法林寺など市内の寺社縁日の朝市で見かける意匠の優れた蒲団地の縞木綿古布を手にする彼は、やがて「名布と讃えられる日は来るであろう。」とも讃している。
 大正12年9月1日、関東大震災が発生。翌13年に居を京都に移し、法学者の野瀬克男同志社大学
教授の紹介で同志社女学校専門部で教鞭をとることになったが、声楽家の兼子夫人を伴っての古布
漁りは続いた。吉田神楽岡町の自宅には古布が行李三杯分に納められていたと、訪ねた上代染織史学者の上村六郎氏は驚いている。
 これら一群の古布を指して柳氏は「丹波布」と命名していた。そう名付けたのは、やはり大正10年代かと推測される。大正14年12月、木喰仏に接して感銘していた氏は、河井寛次郎氏、濱田庄司氏の三名で紀州路に木喰上人の遺跡に赴く車中での談論から、民衆の手による工芸品を民衆的工芸ととらえ、略して「民藝」と言う言葉を誕生させた。この民芸理念を白樺派の武者小路実篤氏が編集する雑誌『大調和』に昭和2年から連載。これをまとめて翌3年に『工藝の道』として上梓、この書は以後民芸運動を支える理念の原典となるが、その前年に民芸の実験工房として上加茂民芸協団を洛北に設けた

 協団には同志社中学教諭で織物家の青田五良氏が加わっていた。柳氏は心に宿す丹波布の故郷を明らかにすべく、青田氏に調査を託すが、なかなかはかどらない。街の古物商は丹波地方の産物と噂するが、明治末期に生産が途絶えていたため、京都へ売り捌きに来る商人を見かけることもなく、その後の消息はつかめなかった。青田氏を諦め上村六郎氏に調査研究を依頼した。他の木綿と画然たる相違のある、自ら丹波布と命名した縞木綿の生い立ちを早く知りたかった柳氏。
 その結果を上村氏は雑誌『工藝』6号で記述したが、昭和6年刊『丹波布』に同4年から着手し、翌5年暮れ、丹波地方の篠山か佐治にかけて山陰街道沿いに進み、かつて宿場町でもあった佐治町(現・兵庫県丹波市青垣町佐治)で「縞貫」とこの地で呼ばれるものが、めざす木綿であると突き止めるに至る経緯を書きしるした。
 時は流れ忘れ去られたかに思われた丹波布が、復興の道を歩み出すのは昭和28年。佐治を再訪した
上村氏と地元の人たちによって丹波布復興協会が結成され、同年に復興丹波布第1号を織り出した。
同30年に丹波布技術保存会となり、同32年「記録作成を講ずべき国の無形文化財」となる。平成10年には丹波布振興の拠点となる丹波布伝承館が落成した。柳氏が愛しんだ丹波布は、いま若い世代の手によって立派に受け継がれている。
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